オールドレンズで撮っても意味がない?どこまでが写真なのか

オールドレンズで撮っても意味がない?どこまでが写真なのか

ある日SNSを見ていたところ、とある写真に出会いました。それはなんの変哲もない写真に周辺減光が強烈にかけられ、デジタル現像ソフトの機能で輪郭を強調させた過度にシャープな写真でした。

なぜこういった写真が生まれてしまうのか、写真の味とは何なのか、そしてどこまでが写真なのか、こういったことを考えてみます。

オールドレンズと写真

みなさんオールドレンズは好きですか。私は好きです。ライカを好む人にとっては切っても切り離せないものだと思います。

オールドレンズに求めるものは何でしょう。多くの人は「収差の味」でしょうか。

この収差の味というのが意味するのは、「現実にはない写真独自の表現」です。写真独自の表現というのは、目で見ている現実世界にはない現象が写真に表れていることです。分かりやすい例でいうと、写真の周辺が暗くなっていたり、目では見えない光線が写っていたり、ものの輪郭が滲んでいたりすることです。

これは写真の表現においてアクセントにはなりますが写真の主題ではありません。この「主題ではないもの」を求めて突き詰めていく場合、レンズの製造段階から撮影時〜撮影後の処理まで意識的に手を加えることになります。

オールドレンズに限定してざっと説明すると以下のような形です。

オールドレンズ的写真表現

レンズの製造段階・・・オールドレンズ的なレンズを作る

撮影時・・・オールドレンズを使う、オールドレンズ風に撮る

撮影後・・・オールドレンズ風に加工する

もう少し詳しく見ていきます。

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レンズの製造段階

レンズの製造段階というのはオールドレンズテイストのレンズをあえて作ることです。フォクトレンダーがあえて収差を残したレンズ作りをよくやってますね。

撮影時

撮影時にはf値や被写体を調整して意図的に収差が出るように撮ることができます。またレンズの前に何かをかましたり、特殊なフィルム等で描写を変えることもできます。

撮影後

撮影後にはデジタル現像でオールドレンズ風のフィルタをかけたり、コントラスト、テクスチャ、シャープ等で元の写真からは見違えるような処理を加えることができます。

オールドレンズのどこまでが表現で、どこまでが写真なのか

これらは一見、優劣があるように人は感じます。例えばオールドレンズテイストのレンズで写真を撮ることは良くても、Lightroomの調整でオールドレンズ風を演出するのはNG、みたいなことです。どの段階で「現実にはない写真独自の表現」を目指すか、そこにヒエラルキーがあるのです。

しかし、よくよく考えてみると写真への表現手段という点ではすべて等価です。そしてそれらがどの段階で手を加えられたのか、というのは閲覧者にはわかりません。閲覧者はオールドレンズの物理的特性を理解しているわけはなく、どれも等しく「現実にはない写真独自の表現」で、どれも「主題ではないもの」なのです。

オールドレンズ写真とレンズそのものの優位性とは

以前ライカのノクティルックスで撮られた写真と、中華製のf値0.95レンズで撮った写真を比較をした方がいました。私は何度もそれを見ましたがどうしても違いが見つけられませんでした。

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ライカのズミルックス35mmにインスパイアされたレンズと本家をブラインドテストで当てられるかというとあまり自信はないです。

自分で撮った写真も6bitコードがついてなければどのレンズで撮ったか、わからなくなるときがあります。

つまり、レンズの描写の大部分は精神的なものです。それ以上でもそれ以下でもありません。

ではレンズを買うときに、ライカか、もしくはそのフォロワーである似たような表現をする他のメーカーのレンズのどちらを買うかというと、私はライカを選びます。これは単にライカが積み重ねてきた歴史への敬意だったりします。

オールドレンズにみられる写真の精神性と速度

そしてこれらの精神性をすべて取っ払ったのが冒頭のようなSNSの写真です。小さなスマホ上で見られているコンマ数秒の間に如何に惹き付けさせるかというのを突き詰めた結果、ただ刹那的に映えるエフェクトを極端に加えたという潔い写真。こういった写真は専門家からすると気持ちをげんなりさせるものであり、写真としてNGを出す人も多いと思います。

ではオールドレンズ、もしくはオールドレンズ風の写真とどう違うのか。どちらが素晴らしいのか。

どちらも特殊な写真の使われ方をしていますが、どちらも本質的にはそれほど意味がないのかもしれません。

「見えるものがすべて」の写真

ここで強調すべきことは、写真は見えるものがすべてだということです。写っている表れ(主題)がすべてです。しかし写真には表れない部分に人はこだわります。そして写真には表れない部分に人は文脈や物語を求めます。過度に文脈を求めてオールドレンズに走るのか、もしくは過度に費用対効果を求めて刹那的なエフェクトをかけるのか。どちらも「写真的」ではあるものの「写真」の中心からは外れていく構図があります。

つまり、何が言いたいのかというと、結局主題でないものはどこまでいっても主題にはなれず、そのメディアが持つ性質の悲しい部分を浮き上がらせるだけだということです。

しかし人はレンズやカメラの描写に幻想を求め、またそれらを拡大させる形でデジタルを活用していきます。ちなみにオールドレンズを完全にデジタルで再現できればオールドレンズそのものはいらないのでしょうか?あなたはどう思いますか?

写真における本当の主題

この「主題でないもの」の怖さに気づいた人は、表現や被写体に再度目を向けるかもしれません。しかし主題をいくら複雑にしようとも1枚の写真に込められる情報量は限界があります。それこそが写真が抱えるジレンマだと私は思います。

これを踏まえて「じゃあ写真なんてつまらない」「オールドレンズを使う意味はない」とするのか、はたまた、レンズを愛してうまく主題を効果的に見せるために意識的に使うのか、その人の自由です。

しかし結局のところどのような形にせよ、人は懸命であること、努力して取り組んでいること、そういった古臭い人間性に惹かれるのかもしれないと思うことも多々あります。

そのようなせめぎあいが写真の面白いところでしょうか。どうなんでしょう。ライカを使いながら今日も考えます。

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